
駅を出てから、車で少し走った。
道は広くない。
窓の外には、畑と低い家が続いている。
大連の街中とは、全然違う。
同じ中国なのに、空気が少し軽い気がした。
でも。
聞こえてくる言葉は、少し重かった。
車が止まる。
門の前に、何人かが立っていた。
张晓红が車を降りる。
「到了。」
(着いたわ。)
私はバッグを持って、後ろに続いた。
すぐに、年配の女性が近づいてくる。
「哎呀,回来了!」
(あら、帰ってきたのね!)
声が大きい。
その後ろから、別の人も出てくる。
「这是日本来的姑娘吧?」
(この子が日本から来たお嬢さん?)
私は少し慌てて頭を下げる。
「你好。」
(こんにちは。)
すると、誰かが笑って言った。
「哎呀,还会说中文呢!」
(あら、中国語も話せるのね!)
私は笑うしかない。
家の中に入る。
靴を脱ぐのか、脱がないのか、一瞬迷う。
张晓红が小さく言う。
「没事,进来吧。」
(大丈夫、入って。)
部屋の中は暖かい。
人の声。
湯気。
料理の匂い。
一気に、家族の中へ入った感じがした。
親戚らしい男性が、私に向かって聞いた。
「你搁哪儿来的?」
私は一瞬止まる。
——搁?
どこかで習った気がしない。
でも、文の流れから考える。
たぶん、どこから来たのか聞いている。
「我从日本来的。」
(日本から来ました。)
男性はうなずく。
「日本啊,老远了。」
(日本か、遠いなあ。)
私は少しだけ安心した。
通じた。
でも、耳はまだ落ち着かない。
別の女性が、台所の方から声をかける。
「这菜咋整?」
——咋?
——整?
知っている単語のはずなのに、意味が違う。
“整”は、整える。
でも今は、そうじゃない気がする。
私が固まっていると、张晓红が小声で言った。
「这里的‘整’,就是‘做’的意思。」
(ここでの“整”は“やる、作る”って意味よ。)
私は小さくうなずく。
同じ中国語なのに、少しずつ違う。
授業で聞いた中国語に似ている。
でも、同じじゃない。
「听不懂吧?」
(分からないでしょ?)
张晓红が笑う。
私は正直に答える。
「有点。」
(ちょっと。)
「这边说话有点不一样。」
(この辺はちょっと話し方が違うのよ。)
有点どころではない。
でも、そう言うと失礼な気がして、私は笑った。
しばらくして、食卓に料理が並んだ。
魚。
肉。
野菜。
そして、餃子。
山のように置かれている。
「北方过年,饺子少不了。」
(北方の正月に、餃子は欠かせないの。)
张晓红が言う。
私はうなずく。
「好多。」
(多いですね。)
親戚の一人が笑った。
「多吃点!」
(たくさん食べなさい!)
これは分かる。
もう何度も聞いた言葉だ。
私は安心して答える。
「好。」
(はい。)
餃子を一つ取る。
熱い。
中から湯気が出る。
一口食べる。
おいしい。
「好吃。」
(おいしい。)
その瞬間、みんなが笑った。
「好吃就多吃!」
(おいしいならもっと食べて!)
また来た。
多吃点。
私は笑いながら、もう一つ取った。
その餃子を噛んだ瞬間。
カチッ。
硬いものが歯に当たった。
「え?」
思わず日本語が出る。
慌てて口元を押さえる。
中から、小さな硬貨が出てきた。
私は固まった。
——え、なにこれ。
やばいものを食べた?
そう思った瞬間、周りが一斉に声を上げた。
「哎呀!」
「有福气!」
「她吃到了!」
何が起きたのか分からない。
张晓红が笑いながら言った。
「你吃到硬币了。」
(硬貨入りの餃子を食べたのよ。)
「这是好事。」
(これはいいことなの。)
「说明你今年有福气。」
(今年は運がいいってことよ。)
私は硬貨を見る。
さっきまで不安だったものが、急に縁起物になる。
「真的?」
(本当ですか?)
「当然。」
(もちろん。)
みんながまた笑う。
私も、遅れて笑った。
食事の途中で、誰かがまた聞いた。
「日本过年也吃饺子不?」
(日本の正月も餃子食べるの?)
私は少し考える。
「不太吃。」
(あまり食べません。)
「我们吃……年糕。」
(私たちは……お餅を食べます。)
「年糕?」
(お餅?)
みんなが反応する。
私はうまく説明しようとする。
「白色的,软软的。」
(白くて、やわらかいものです。)
「可以放在汤里。」
(スープに入れたりします。)
言いながら、自分でも驚く。
完璧ではない。
でも、説明しようとしている。
前なら、ここで黙っていたかもしれない。
食事のあと。
私はトイレに行きたくなった。
张晓红に小さく聞く。
「卫生间在哪儿?」
(トイレはどこですか?)
张晓红が少しだけ間を置いた。
「外面。」
(外よ。)
外?
案内されて、私は家の裏手に出た。
冷たい空気。
暗い。
そこに、簡易的な小屋のような場所があった。
中を見る。
一瞬、言葉を失う。
工事中なのか、ただ穴があるだけに見える。
——え。
これ?
张晓红が少し申し訳なさそうに言った。
「现在还没修好。」
(今、まだ直している途中なの。)
「有点不方便。」
(ちょっと不便だけど。)
ちょっと。
ちょっと、の範囲が広い。
でも、ここではこれが現実だ。
私は深呼吸した。
「没事。」
(大丈夫です。)
言ったあとで、自分に言い聞かせる。
大丈夫。
たぶん。
部屋に戻ると、みんなはまだ話していた。
笑い声。
方言混じりの中国語。
分かる言葉もある。
分からない言葉も多い。
「啥?」
「咋整?」
「可热闹了!」
何度も出てくる音。
少しずつ、耳に残っていく。
私は全部は分からない。
でも、さっきより怖くない。
张晓红が私にお茶を渡す。
「累了吧?」
(疲れたでしょ?)
私はうなずく。
「有点累。」
(少し疲れました。)
それから、少し考えて言う。
「可是……很有意思。」
(でも……とても面白いです。)
张晓红は笑った。
「这就是过年。」
(これが春節よ。)
私は湯気の立つお茶を見つめた。
音も、言葉も、食べ物も、トイレさえも。
全部、知らないことばかりだった。
でも。
私はもう、ただ見ているだけではなかった。
餃子を食べて。
笑われて。
聞かれて。
答えて。
少しずつ、この家族の中に入っていた。
——中国語は、教室の中だけにあるんじゃない。
私はそう思った。
ここにある。
この声の中に。
この食卓の中に。
この、分からないまま笑っている時間の中に。